名前からも元気を発信できるように、文を作っちゃいました。ちょっと無理があるかも知れませんが・・・
自分自身も元気になれる気がします。(自己満)
昭和47年京都に生まれ
京都育ちの4人兄弟の末っ子。
よく「京都人はハラグロ」と言われますが、自分ではそんな事を感じさせない京都人であると思っています・・・(笑)
少しはんなりとしたと喋り方が京都人らしく感じてもらえるようです。
現在高槻市に住んで、もう10年以上になります。
妻・子供3人の5人家族で毎日楽しく和気あいあいと暮らしています。
幼少期~社会人 ケガばっかりのエピソード
ケガの最初は、幼稚園の年長さんのときでした。
友達数人と鬼ごっこをしていて、足を滑らせ頭からダイビングした状態で、オルガンの角に頭をぶつけて、流血・・・母親が幼稚園に飛んできて、すぐに病院へ行き数針縫うケガが始まり。
小学校1年に入って2、3ヶ月経った頃にやっちゃいました。
放課後、姉と姉の友達と一緒に、雲てい(はしごを横にして柱で支えたような形の遊具)で遊んでいたときに、ちょうど真ん中の高いところで、渡れないと姉に助けを求めたんですが、姉は『大丈夫や!手を離して降りたらええねん』って言うんです。でも怖がりの僕は助けてくれるのを待っていました。しかし、我慢しきれず、力尽き落下!どんくさい僕は右腕を地面に強打し腕の骨を折り、入院。。。
その結果学校では低学年は遊具使用禁止となるは、僕自身は夏のプールの授業に出れず、かなずちの僕は、3年生まで泳ぐのが更に苦手となりプールの授業はズル休みが多かったです。
今はそこそこ泳げるようにはなっていますけどね。
あとは、鉄棒で綱渡りみたいにその上を歩いてバランス崩して脇腹を強打とか、バレーボールの試合中に味方と交錯して、アルところを強打。あれは痛かったですよ~(>_<)
などなど・・・
中学、高校時代はバスケットボール部に入り練習の毎日。
捻挫、打撲は日常茶飯事でした。まだこのときは大きいケガは少なかった気がします。肋骨が折れるとかはありましたけど。
社会人になってからもバスケットは続けていました。やはり捻挫とかはありましたね。
高校時代のバスケ友達の誘いで、京都シティハーフマラソンに出ることがあったんですが、1年目は17Kmを過ぎたところでリタイヤ・・・理由は、お腹が減って動けない。いわゆるガス欠です!その時救急車で運ばれ恥ずかしい思いをしたので、次の年にリベンジをし見事ゴールできました。その時はリタイヤもケガもなくと安心していたんですが、2、3日してから足首の痛みが増したので病院に行くと、疲労骨折でした。そしてギプスをするはめに・・・。゚(T^T)゚。
何でこんなタイミングでと思うぐらいタイミングが悪かったです。なぜなら、その当時付き合っていた彼女(現在の妻)の家に結婚のあいさつ行く予定は決まっていました。日を変えるのも失礼と思い、ギプスをしたままスーツを着て松葉杖の格好でご両親にあいさつに・・・今となっては笑い話です。
結婚してから、しかも柔道整復師の資格を取るために通っていたときでした。小学生の時に柔道を習っていたこともあり、そこそこ柔道はできる自信はあったので柔道の授業は楽しみでした。
そして、3年生の時校内の大会があり、演武で出場するために2人で一生懸命練習していました。演武での役は投げられる役なので、姿勢と受け身をきれいに見せることが大事でそのことに集中していたら、投げられて着地を失敗!!
右足の親指がたたみとたたみの隙間にちょうどはまり込んでそこに全体重が乗っかかってしまい第1関節から指が取れかけた状態(指の骨とかが見える)になりました。
専門的に言うと開放性脱臼です。その時は自分の感覚で、『ヤ・バ・イ』と感じました。授業中だったので先生も駆け寄って来てケガを見ると整復したくなったのか、パニックになっていたのかわかりませんが、指が取れかけているのにも関わらず、引っ張っているので本当に取れてしまいそうになり焦りました。
そして学校の近くにある病院なら緊急でも診てもらえるし救急車を呼ぼうとしてくれたんですが断り、その時働いていた整形外科に行きたいと言ったので、取れかけた状態でタクシーで病院に行き診療時間が終わるまで待ち処置室での手術となりました。
無事手術は成功したのですが、普通ならこんな大ケガは入院と思っていたのに、自宅でギプスをしたままの生活となり、妻には呆れられ、子供には、『お父さんの指プラ~ンってなってんでぇ~』って自慢???するわで入院したら良かったと思い肩身の狭い生活をしばらく送るはめになりました。
このケガをキッカケ??に最近はケガをしないように注意しているのでケガをすることがなくなりました。いかに自分が後先考えずにやっていたのかと思いますね!
この仕事に就くキッカケは、何気ない母の一言・・・
学生時代か社会人なりたての頃だったと思いますが、母親がいつもはそんなに体が痛いとか、疲れたは言わないのに、珍しく弱音を言うことがあり、自分でも何を思ったのか、『マッサージしたげる』と、言い横にさせてマッサージをしました。
その時母は『上手やな~、楽になるわ!!』と、言ってくれたときの、うれしい気持ちと、何とも言えない喜びを感じたことがありました。当時、マッサージや人の痛みを治す仕事があることも知らずにいました。
そんな感情を心の片隅にしまったまま仕事に就き頑張っていました。
でも、今やってる仕事は好きな仕事なんかなぁ・・・他にあるんちゃうかなぁ・・・と自問自答することが多かったです。
そんなことを考えているせいか、職を転々とし自分に合う仕事を探すようになりました。そんな時、仕事中に重い物を運ぶことがあり(以前勤めていた事務所の引っ越し)、運んでいる最中にギックリ腰になり、友人に紹介してもらった整体院で数回通って治してもらいました。その時治してもらった事も嬉しかったんですが、心の片隅にしまってあった感情と合致して、この仕事が自分が探してた仕事だと感じ喜びました。
それから、複数の整体学校を調べて、見学・体験を受け自分に合った整体を探し、総合整体学院という整体の学校を選び、そこで1年間勉強して整体師となり、整体院・マッサージサロン(大阪市内、京都祇園等々)で働きました。
更に勉強を深める為、柔道整復専門学校に3年間通い、頑張って国家資格も、一発合格し、柔道整復師となりました。
柔道整復専門学校に通っている間は毎朝30分勉強会で医学知識を勉強できる土居整形外科で働き、合間に以前勤めていたころの患者さまを京都の実家で整体治療をしておりました。
卒業後も土居整形外科にしばらく勤務しながら、整骨院で患者さまへの解りやすい説明の仕方、治療技術などを修業いたしました。この時の土居整形外科と整骨院での経験が今の自分に大いに役立っていると思います。
これからは、今までの自分の経験を活かして、身体の不調、痛み、ケガ・歪み等で、お悩みの方々を微力ながら支えることができるよう精進してまいります。
今後とも爽快堂整骨院を末永くよろしくお願いいたします。